東京の匠の技

ミシン

東京都ミシン商工業協同組合

久保木政道さん
鎌田健一郎さん
佐藤金夫さん
手島一夫さん

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当初の価値と輝きを失い、捨て置かれる寸前の機械に、再び命を吹き込む。あるいは、半ば役割を終えようとしている機械に新たな力を与え、できなかったことを可能にする。整備を担う彼らは一様に、“機械を元気にする”と表現する。そして、持ち主に返す時、“可愛がってください”といって渡す、と笑う。どこか少年の面影を残す彼らにとって、自らの手で元気を取り戻した機械は、巣立っていく我が子にも等しいのだろうか。

ミシンの歩み

日本にミシンが本格的に上陸したのは、1890(明治23)年、アメリカのシンガーミシンだった。だが、販売店はできても、メンテナンスを担う組織はなかった。「町の鍛冶職人がミシンを直したところからミシン屋が発達したといわれます。日本には、直して長く使う文化がある。ミシンはメカで、部品の修理やカスタマイズが可能。日本のミシン製造は、昭和に入って本格化しますが、もとは部品製造や部品加工、メンテナンスから発展してきたものです。逆に言えば、それが商売になるほどミシンが売れたことで部品メーカーが発達し、ミシン業界の礎となったのです。」
1945(昭和20)年、戦争に負けた日本では、ミシン需要が飛躍的に増大する。理由は、繊維製品が主な輸出品になったため。軍需産業から平和産業への転換であり、ミシンはその象徴だった。「当時は、部品メーカーから部品を集めてくれば、ミシンができてしまう時代。ミシンの規格は同一で、シンガーの時代から変わりません。メーカーは違っても基本構造は変わらない。針棒と押さえの間隔、針棒の太さも同じです。」

機械を元気にする

ミシン本体はメーカーの製造だが、素材が変われば、厚みや縫い方が変わり、それに応じた部品が必要になる。だが、メーカーは、その細かいニーズには対応し切れない。流通を担う技術者がそれに対応し、部品づくりやカスタマイズを行ってきた。「明治期にミシンが輸入された当初からそうでした。ものづくりの要となる領域を担ってきたのは、我々のような技能者です。直線縫いを基本とする家庭用や職業用のミシンはもとより、縫い方や用途ごとに専用機が ある工業用ミシンは1,000~2,000 種とあり、とても生産現場のニーズに対応できません。しかも、製造停止のパーツもある。“バインダー(ラッパ管)”などのアタッチメント類、何百種類とある“押さえ”関連のパーツなど、我々ができるものについては、使いやすくする加工や専用部品の製造も行います。」

仕上がりを体感し、自信を持って渡す

重要なのは、現場の声に耳を傾けること。単に“直す”のでなく、生産効率に影響する要因を洗い出し、改善につなげる。「どんなに説明しても、結果を見せなければ納得してもらえない。 何より作業者の心のケアが必要です。作業者が“ダメだ”と思っているミシンは、思い込みがある限り、直しても納得してもらえない。
“これで大丈夫です”といって渡す時に、作業者の意識も変えられるか。それができれば、機械は本当の意味で元気になり、再び活躍できます。」
作業者の目線で、ミシンと向き合う。「パーツを加工し、自分で縫ってみると、驚くほどスムーズに縫える瞬間があります。そこまで縫えるようになって初めて完成形。あれこれ調整しているうちは、未完成。使う人の立場で納得できるところまで試行錯誤します。正直、逃げたくなるものもありますが、喜んでもらえるなら、どんな苦労も甲斐があります。」
使いやすくなったことを、自らの身を持って体感する。その体感があれば、自信を持って渡す。技を裏づけるのは、自らの感覚。それが確たる自信につながっている。

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#お問い合わせ先

東京都ミシン商工業協同組合
東京都台東区台東1-21-4
電話番号:03-3831-6961
公式ホームページ:http://www.sewing-machine.or.jp

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